記憶の蝶

 Nabokov は、第二次世界大戦の戦乱を逃れて、ヨーロッパからアメリカ合衆国に渡る直前までの半生を、"Speak Memory"(『記憶よ語れ』)という自伝(大津栄一郎による邦訳がある)にまとめている。この自伝を読むと、Nabokov が永遠に失われたロシアと幼年時代の思い出をどれほど愛惜していたかがよくわかる。

 Nabokov は、『記憶よ語れ』の冒頭に、セントペテルブルグにあったかつての Nabokov 家の荘園の地図を載せている。そして、そこには、Nabokov が描いた一匹の蝶のスケッチがあしらわれている。これは、Nabokov 家の荘園にもいた(『記憶よ語れ』の中で、その最初の出会いも語られている)クロホシウスバシロチョウ(Parnassius mnemosyne)である。

 この蝶の学名(種小名)の mnemosyne はギリシア神話の「記憶の女神ムネーモシュネー」にちなんでいる。Nabokov が、ほかならぬこの蝶を、いまは失われ、彼の記憶の中にしか存在しない Nabokov 家の荘園の地図の上におき、それを自伝の冒頭に載せた理由は明らかだ。

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セントペテルブルグにあった Nabokov 家の荘園の地図

 左上には、Nabokov 自身の手になるクロホシウスバシロチョウのスケッチがおかれている。
 この蝶は、その名前からして記憶の守護神であり、自伝の冒頭にあって、そこに語られる思い出を優しく守護している。

 日本には、クロホシウスバシロチョウによく似た(ごく近縁の)ウスバシロチョウ(Parnassius citrinarius)が生息している。そして、この蝶は、Nabokov の最後の作品である『アーダ』(Ada)の中に一瞬だけその姿を見せる。

 ... 別れの手をふりながら、双児は、年寄りの女家庭教師と眠たそうな若いおばといっしょにランドー馬車に乗って去っていった。真っ黒な胴体で、青白くすけて見える羽根の蝶が一匹、そのあとを追うように飛んでいった。「ほら!」とアーダは叫んで、あれは日本の "うすばしろちょう" ととても深い関係がある蝶だと説明した。
(斎藤数衛・訳『アーダ』上巻 87頁。蝶の名前の部分の字句をあらためた)

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ウスバシロチョウ
京都市左京区広河原にて、荒木・採集。

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